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吉原遊郭は現存する?現代に残る吉原遊郭の歴史と花魁裏話

水野 文也F.Mizuno

目次

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1:そもそも遊郭って何する場所なの?

「遊郭」というのは、公に許された遊女屋を集めた場所のこと。江戸時代は幕府公認で売春が行われていたのです。城郭のように周りを堀や塀で囲んだことから、「郭」という字が使われ、非公認だった「岡場所」などと区別されていました。廓(くるわ)や傾城町(けいせいまち)などともいわれます。

代表的な江戸時代の遊郭としては吉原が有名ですが、都市部を中心に全国各地に存在していました。江戸の吉原遊郭は明治以降も続き、遊郭として幕を下ろすのは、売春防止法が施行された1957(昭和32)年。遊女屋はトルコ風呂、現在のソープランドに転身し、今でも吉原は全国有数のソープ街として、昔の名残りがあります。

遊郭は男性にとってはパラダイスのような場所。一方、女性にとっては、貧しさから売られて遊女になった女性が大半で、ある意味、江戸の暗部といえるかもしれません。

2:観光スポットにも…吉原遊郭で現存する建物など3つ

江戸にあった吉原。時代劇などをみると、しばしば登場するので、聞いたことがある人は多いでしょう。今でも、吉原があった一帯は、歓楽街として昔の名残をとどめていますが、江戸時代の風俗を知る観光スポットにもなっています。

(1)大門

現在、地下鉄の駅にもなっている大門(だいもん)とは違います。「おおもん」と読み、吉原遊郭の出入り口にあたる正面玄関。遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門だけで行われていました。

当時は浮世絵に描かれた立派な木製の門があり、明治期にはアーチ型の鉄門が設置されていましたが、関東大震災で撤去され、現在は大門があった場所に、モニュメントが設置されています。

(2)吉原神社

明治の初めに、新吉原遊郭に古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷と、新吉原四隅に祀られていた稲荷祠の五社を合祀して、吉原遊郭の鎮守として創建された神社です。ご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と、弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。

ここでは、技芸上達などのご利益があるといわれていて、芸事に優れた花魁のイメージから、「なるほど」と思わせますね。今でも、女性の参拝客が多く、パワースポットともなっているようです。

(3)浄閑寺

吉原の哀史が詰まったようなお寺。吉原の北側、荒川区南千住2丁目にあります。通称「投込寺」と呼ばれますが、これは1855年の「安政江戸地震」で亡くなった多くの吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことに由来します。身寄りのない遊女たちが葬られ、「生まれては苦界 死しては浄閑寺」などと川柳に詠まれました。

3:現在の吉原遊郭はどうなっている?

(1)見返り柳

吉原の入り口付近にある柳の木。遊んだ男がこの柳のあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことから名づけられたとか。今でも、東京都台東区千束4丁目の交差点には、見返り柳が残っていますが、枯れるたびに新しい柳が植えられ、現在の柳は6代目にあたるそうです。

(2)衣紋坂(えもんざか)

吉原で遊ぶ客が身なりを整えたことに由来する、遊廓の入口付近にある坂。出入りする客が外から見えないように、S字状につくられました。現在も、見返り柳から大門までの五十間通りは、S字カーブとなっています。

(3)吉原土手

当時の吉原には「山谷堀」と呼ばれる堀があり、当時は船で通う遊客がいました。 堀に沿って築かれた日本堤は「吉原土手」ともいわれ、現在も残ろる「土手通り」という名前に、その名残がみられます。また周辺の「日本堤」という地名は、この土手を指していました。

4:知れば知るほど奥が深い花魁裏話5つ

吉原といって思い浮かぶのは花魁。高級遊女のことです。実は、この名称で最高位の遊女があらわされた時期はそれほど長くないのです。一般化したのは明和(1764~72年)ごろ。吉原では太夫(たゆう)が衰滅して、散茶(さんちゃ)と呼ばれていた時代で、その最上格を花魁と呼んだそう。

彼女たちは、「張り見せ」と呼ばれる、店舗前の座敷で道行く男衆に色気を振りまくことはせず、「呼び出し」といって、今で言うところの「指名」だけで客をとる遊女でした。もう少し深く見てみましょう。

(1)“いたすの”は3回目以降

しきたりで、花魁と床入れするまでには3回通わなければならない、という伝説があるほど、花魁は高級な扱いでした。初回は顔見せ程度。いかなるお金持ちや身分が高い人でも、気に入らなければ、花魁のほうからお断りとか。これが事実なら、とってもタカビーだったんですね。

(2)大名よりもエライ

江戸時代は身分制度が厳格でしたが、吉原遊郭の中は例外。ひとたび、大門をくぐれば、武士も町人もありません。そうした中でも花魁は別格で、 客の上座に座るという作法もありました。大名家のお殿さまであっても、花魁と対するときには下座に座ったという伝説も。時代劇などでもそうしたシーンが少なくありません。

(3)客を浮気者扱い?

さて、花魁の馴染みになれて、めでたし。そしてその後、別の遊女のところに……となると、これは一大事。たとえお客と言う立場であっても、他の遊女に通うと浮気とみなされ、それがバレるとお金を払ってお詫びをしなければなりませんでした。

(4)花魁道中

花魁といえばこれ。10歳前後である禿(かむろ)などを引き連れ、遊郭の中を練り歩きます。今でも祭りの催し物で再現されているので、おなじみでしょう。このとき、高い黒塗下駄で「八文字」という独特の歩き方をしますが、それができるまでに3年はかかるそうです。

(5)当時のインフルエンサー的な花魁もいた

元は下級の湯女(ゆな)だったのが、吉原に来てから大ブレークしたという「勝山」という花魁がいます。井原西鶴が「西鶴織留(さいかくおりどめ)」で紹介するなど、その歴史に名を残しています。アイドルのように人気があっただけではなく、今でいうインフルエンサーのような存在だったのです。

勝山が結った「勝山髷」は、後に「丸髷」とも呼ばれ、上品な印象から武家の奥方が好んで結い、当時の識者を嘆かせたとか。また、「どてら」と現在呼ばれる広袖の綿入れ「丹前」も、彼女が考案したものという説もあります。鼻緒が朱色で2本ある「勝山草履」など、今でも知られているものも。ちなみに上述した花魁道中の「外八文字」の歩き方も、彼女が考案したといわれています。

このような花魁を相手するためには、客のほうにも厳しい掟がありました。しかし、それが守られていたのは江戸中期まで。徐々に大衆化していきました。

5:吉原炎上ってどんな映画?

吉原遊郭を取り上げた作品の中で、最も著名なのは、1987年に公開された映画『吉原炎上』でしょう。主演・名取裕子、監督・五社英雄のこの映画は、吉原遊郭に生きた女たちの生きざまを本格的に取り上げた初めての作品といわれています。主演の名取裕子をはじめ、出演した著名女優のヌードも話題になりました。

クライマックスは、圧巻の火災シーン。これは明治44年に起きた浅草の大火災がモデルで、これによって吉原は壊滅的な打撃を受けました。

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われましたが、吉原が出火場所だった大火が多かったとか。これは、とても厳しかった吉原の生活に耐えきれずに自暴自棄となり、遊女が放火したケースもあったそうです。

6:まとめ

今回は遊郭として吉原を取りあげましたが、今なお、遊郭としての雰囲気を残すのは、大阪の飛田新地ではないでしょうか。ただここも、最近では観光地化しており、外国人観光客が多く訪れるようになりました。

こうして、時間の流れとともに、当時の風俗もだんだんと姿を消し、逸話の中の存在になっていってしまうのかもしれません。